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	<title>日本らしさとは</title>
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	<description>私たち日本のいろんなことです。</description>
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		<title>終戦後の暮らし</title>
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		<pubDate>Tue, 10 Apr 2012 22:32:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[終戦後の暮らし]]></category>

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		<description><![CDATA[世界第二次大戦が終わったとき、私は小学生でした。それまでは、毎日、毎晩、空襲に悩まされていましたが、この心配が [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>世界第二次大戦が終わったとき、私は小学生でした。それまでは、毎日、毎晩、空襲に悩まされていましたが、この心配が無くなり、うれしかったです。だが大人達にとっては、戦争が負けて、それで終ったということなので、そのショックは大きかったようです。</p>
<p>その後、しばらくすると、小学校を卒業したら、誰もがあと3年間、新しく出来る中学校へ、通うことになるという、話が耳に入ってきました。</p>
<p>いままでなかった学校だから、どこかに新しく作るのだろう、くらいに思っていましたが、4月になると、私の学校の卒業生は、また小学校に来ましたが、今度は工事中の建物に入って行きました。そこは将来、教室になるであろうという部屋でしたが、戦争の影響であまり工事が、進んでいませんでした。</p>
<p>そこを覗いて見ると、まだ床はまだ無くて、土の上にムシロを敷いて座り、先生の話を聞いていました。その彼らも夏休みが終ると、中学校が出来たと言って、もう小学校には来ませんでした。</p>
<p>私達小学生にとって、敗戦のショックは、戦争が終ってから、一ヶ月後にやって来ました。いままで、親のいうことは聞かなくても、いうことは必ず聞いていた、先生から、｢墨塗り教科書｣を、作るように言われたときでした。教科書に落書きをして、これが親に見つかったら、ものすごく怒られた、その教科書に、墨を塗ったり、破くのですから、とても淋しかったことを、思い出しました。</p>
<p>そんなことを思い出していると、そのころのことが、いろいろと、思い出されて来ました。食べ物のこと、着る物のこと、履く物のことなど。私は在宅ライター 募集に応募して、いまこのライティングをしています。自分の過去の体験をありのままに綴っています。今の若い世代の人々に、この体験が伝わり、役に立つことがあれば、このうえない喜びです。これが在宅ライターのだいご味だと思います。</p>
<p>戦後、人々がよく口にした言葉に、｢戦争のために、何もかにも失くしてしまいました｣と、いうのがありました。確かに目に見えるものは、失くしたのでした。でも目に見えないものは、チャント残って、いま花が開いているのです。</p>
<p>註1：昭和16年(1941)4月から、昭和22年(1947)年3月まで、満6歳から12歳までの児童が通う学校は、｢国民学校｣といっていました。  </p>
<p>註2：昭和22年(1947)3月まで、｢中学校｣と、呼ばれていた学校は、｢高等学校｣と呼称を変え、満15歳から、満18歳の生徒が通う学校になりました。</p>
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		<title>小学校と中学校</title>
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		<pubDate>Sat, 19 May 2012 22:59:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[終戦後の暮らし]]></category>

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		<description><![CDATA[第二次世界大戦は、昭和20年（1945）8月15日に、終わりました。中学校はその2年後の、昭和22年（1947 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>第二次世界大戦は、昭和20年（1945）8月15日に、終わりました。中学校はその2年後の、昭和22年（1947）に、日本全国に開校しました。だから日本で一番古い中学校は、開校してから65年、経っています。</p>
<p>国に方針は、戦争に負けた日本を立て直すには、まず教育からだということで、この年の4月に学制制度を改正して、日本国民の<a href="http://www.mext.go.jp/a_menu/gimukyou/">義務教育期間</a>をいままでの、6年間から、9年間に、3年延長しました。これは、大変いいことなのですが、どこの自治体も困ってしまいました。それは、この制度で新しく出来る中学校の校舎が必要になったからです。</p>
<p>当時の小学校の状況はというと、都会では多くの学校が戦災で校舎は焼失し、姿を消していました。それで運動場が、｢青空教室｣という教室になっていました。この教室は雨天の日は休みでした。周辺部では、都会から戦火を逃れた人達が集まり、人口が膨張し、校舎に入りきれないくらい、児童が集中していました。</p>
<p>ここで考え出されたのが、一つの教室を、二つの学級が使うという二部授業です。これは授業時間の少ない低学年の学級が対象になりました。この方法は、午前組と午後組に分け、午前組は、午前中だけ教室を使い、午後は運動場で体育などの授業を受け、雨天のとき、体育は休みで帰宅する。一方午後組は自宅で、昼食を食べてから登校し、夕方まで授業を受ける。そしてこれを、一週間ごとに、午前組と、午後組は交替するという、システムです。</p>
<p>一方、中学校は、新しく校舎を造らなければ、ならないのですが、お金・土地・材料・人手、何もないので、どこでも大きな、空き家探しから始まりました。これは、全国各地でいろいろ工夫して、何も無くても、どこでも、昭和22年(1947)年 4月1日に開校しました。</p>
<p>私の通った中学校は、軍需工場の職員の宿舎で、教室の数は学級数より多く、特別教室も沢山ありました。ですが、中身は何も無く名前だけでした。近隣の町村は校舎が、無いので数年後には、校舎の間借りを止めて新築しましたが、開校時から充分すぎるほどの、教室があったので、この建物が老朽し危険な状態になるまで、新築されませんでした。</p>
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		<title>墨塗り教科書</title>
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		<pubDate>Mon, 25 Jun 2012 06:19:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[終戦後の暮らし]]></category>

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		<description><![CDATA[戦争が終って日本の国の方針が、180度転換しました。いままで「富国強兵。忠君愛国」から「主権在民。民主主義」と [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>戦争が終って日本の国の方針が、180度転換しました。いままで「富国強兵。忠君愛国」から「主権在民。民主主義」と、これによって、学校の教育内容も変えなければなりませんでした。</p>
<p>ところが、あと16日もすれは、9月1日、二学期が始まります。とてもこんな短期間で、新しい国の方針を盛り込んだ、教科書など作れませんでした。もし原稿が出来たとしても、製紙工場は、印刷用インクの製造工場は、本の印刷工場は、製本工場は、操業しているのか、もし本が出来あがっても、日本全国に期日までに輸送出来るのか、全てがノーでした。</p>
<p>そこで、考え出されたのが、いままで使っていた教科書から、今後の日本にとってふさわしくない、文章を削除するという方法が採られました。実際にどんなことを、したかというと、まず文章が長くて数ページわたっている所は、破り捨てました。破ると、残す文章まで支障をきたすところは、削除する文章を、墨で、それも濃い墨で塗って、見えなくしました。これが世間で言われている「墨塗り教科書」です。削除された文章は、戦争を賛美する文章、日本の神話などで、「因幡の白兎」は神話ということで、「桃太郎」は、鬼が島で鬼と戦争するということで、その対象になりました。</p>
<p>子供とって教科書は、<a href="http://www.christiantoday.co.jp/">クリスチャン</a>のバイブル以上の存在でした。親が買ってくれた、ただ一つの本でした。兄さんや、姉さんのいる人は、一番上の兄や姉から、兄弟が順番に大事使ってきて、いまは、自分の手元にある。だがこれは、自分の物ではなく、親の物でした。そして時季が来れば、弟や妹に渡さなければならない、本だったのです。</p>
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		<title>終戦前後の食糧事情</title>
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		<pubDate>Tue, 17 Jul 2012 22:59:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[終戦後の暮らし]]></category>

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		<description><![CDATA[いまのように、商品が商店の店頭にあふれていて、なんでも自由に買えることは出来ませんでした。店頭には何もないので [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>いまのように、商品が商店の店頭にあふれていて、なんでも自由に買えることは出来ませんでした。店頭には何もないのです。</p>
<p>まず米です。米を生産する農家はどうであったか知りませんが、米を消費する消費者には、政府(市区町村役場)から、各家族に一冊ずつ「米穀通帳」が発行されました。<a href="http://homepage3.nifty.com/yoshihito/haikyuu.htm">配給制度</a>です。既に戦時中から実施されていました。米は生産者が、供出すると、消費者の手に渡るまで、政府が目を光らせて見張っていましたから、横流しはできないようになっていましたが、</p>
<p>この「米穀通帳」を持って、買うことを登録した、米屋の買いに行きました。これには、その家族の氏名、年齢、世帯主との続柄、政府が決めた各個人の年齢に相当する米の一日当たりの配給量が記載されていました。成人男子で一人一日当たり375ｇでした。</p>
<p>米屋は、これを見て、今日は何月何日まで配給だから、これだけといって、持って行った袋に入れるのでした。レジ袋などありません。売る方が強い時代でした。ただ毎日いつでもというわけでなく、入荷の予定が決まると、今回は何月何日に何月何日の分を配給すると掲示が出て、それを見て買いに行くのでした。消費者は、買いに行く日の、数日先まで分が欲しいのですが、いつもこれは逆で遅配、そしていつのまにか、欠配になっていました。</p>
<p>米の配給があると知って、米屋に行くと、あるときは国産米でなく、輸入米(外米)でした。だがこれならいいほうで、小麦粉、さつまいも、じゃがいも、など、まだましでした。白く精製していない砂糖を、米の代わりに渡されたこともありました。</p>
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		<title>衣料品や、酒、煙草は</title>
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		<pubDate>Wed, 15 Aug 2012 20:45:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[終戦後の暮らし]]></category>

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		<description><![CDATA[衣料品も戦時中から、配給制度でした。 これには、「衣料切符」が発行されました。これは、1 点とか、 5点とか、 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>衣料品も戦時中から、配給制度でした。</p>
<p>これには、「<a href="http://www13.ocn.ne.jp/~seiroku/iryokipu.html">衣料切符</a>」が発行されました。これは、1 点とか、 5点とか、 10点とかの点数が書いてある切符が数枚づつ、つづられていて、衣料品を購入すると、それぞれの品物に付けられた、点数が切り取られ、その点数が無くなったら、もう衣料品は次の切符が来るまで買えないという仕組みになっていました。この「衣料切符」は一年の一回、各世帯に人員に応じて発行され、性別や年齢は考慮されませんでした。</p>
<p>この衣料品のなかで、特異な配給方法をとったのに、学生服とセーラー服があります。このお客さんは、学生なので、品物は直接、学校に来ました。もちろん全員にわたるだけの数まで無いので、抽選となりました。また、サイズによっては、着ることが出来ない、生徒もいるし、もちろんお金もいるので、初日は、買うか買わないか、親に尋ねてくることにしました。翌日、希望者はだいぶ減りました。それでも欲しい一心で、サイズが体に合わないと、体を合わせて抽選に参加する生徒もいました。</p>
<p>運動靴のときは、さすがに靴より足が大きい子供は、抽選に参加するのは遠慮しましたが、逆に小さい子供は参加していました。</p>
<p>お酒も、もちろん配給でした。成年者ならば誰でも買えるようになっていたので、好きな人は、飲まない人から、その権利を譲ってもらいました。</p>
<p>煙草も、お酒と同じでした。ところがあるとき、紙巻煙草は、煙草の葉と紙が別々に、来ました。これには愛煙家も困ったようでした。紙に適量の葉を乗せて紙を巻くのですが、最後に紙を貼る糊で葉が濡れて、なかなか葉に火が付かず、葉だけを、刻み煙草のように、煙管に入れて吸っているとか、子供の耳にもこんな話が入りました。</p>
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		<title>技術の継承</title>
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		<pubDate>Mon, 10 Sep 2012 21:51:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[終戦後の暮らし]]></category>

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		<description><![CDATA[ここは話題を変えます。日本は今後、戦争はしない国にするというこで、戦後出発しました。そこでもう必要ないという事 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>ここは話題を変えます。日本は今後、戦争はしない国にするというこで、戦後出発しました。そこでもう必要ないという事柄も出て来ました。それが戦争をするための技術です。日本は世界でも素晴らしい戦闘機として有名な「<a href="http://www.b-b.ne.jp/zero/">ゼロ戦</a>」を作った技術を持っていたのです。終戦のため、軍の解体によって、これらの技術が、散逸してしまうのは、あまりにも、おしいのでと、当時の国鉄技術研究所(現在の鉄道総合技術研究所)の、所長が彼等に声を掛けて、希望者は所員とし彼等の研究で、鉄道の技術と共通するテーマについて研究を続行させました。その結果、日の目を見たのが、｢東海道新幹線｣です。この頃、鉄道は、世界的に斜陽産業だといわれ、これからの時代は、航空機と自動車の時代だと言われていました。</p>
<p>ところが、これが大成功しました。世界中が、ビックリしました。どの国でも、斜陽産業と言われて見放されて来た、鉄道が見直され、フランスではTGVが、ドイツではインターシティが、走り出しましたもう一つ最近耳にした話で、アメリカ海軍の横須賀基地の、艦船の修繕には、日本人の技術者が携わっているということでした。それも単なる手伝いでなく、技術者として、</p>
<p>ここは旧日本海軍の基地でもあり、ここで艦船が何隻も建造され、修繕もされて来ました。終戦から、67年経過していますからこの人達は、終戦時にこの基地を離れなかった人達から数えても、二代目か三代目になるのでしょう。その技術が、時代に対応した技術に変化して、受け継がれて、残っているのです。米海軍にしても、修繕だけのために艦船を、太平洋を横断させる必要がなく、思い通りに修繕してくれるなら、これにこしたことは、ないのですから、</p>
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		<title>戦後の闇市が果たした役目</title>
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		<pubDate>Sat, 06 Oct 2012 16:58:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦後の闇市が果たした役目]]></category>

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		<description><![CDATA[戦後、多くの消費者が住んでいる、大都会では、空襲や戦時中の強制疎開で、家屋が除去されて、大きな空き地になってい [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>戦後、多くの消費者が住んでいる、大都会では、<a href="http://www.zenkuren.com/">空襲</a>や戦時中の強制疎開で、家屋が除去されて、大きな空き地になっていた、駅前広場に、闇市が自然に発生しました。そこには、消費者には手に入らない、物資が並べられていて、その値段も、政府で決めた値段とはかけ離れていて、高価でした。政府も消費者を飢えさせないために、努力はしていたとは、思います。まず軍隊が、戦地を送るつもりで買い集めましたが、海上輸送が困難になってしまっていたので、軍の倉庫に眠っていた物資（隠匿物資）が、配給されました。</p>
<p>また、進駐軍に要請して彼らが、日本の持ち込んで来た、物資（放出物資）も、配給に回されました。遠くアメリカからは、敵国の血が流れているとの理由で、強制収容所の収容されていた、日系アメリカ人からも、救援物資（ララ物資）が送られて来ました。</p>
<p>それでも、政府の配給はいつになるのか、解らないし、配給があるといわれて、米屋に行くとそこで手渡されたものは、「麦」などはまだいいほうで、「さつまいも」「じゃがいも」もましでしたが、「大豆」そして精製前の「砂糖」でした。</p>
<p>白いお米の姿は、米屋からは姿を消してしまっていました。この白いお米が、高いけれども手に入る、もし手持ちのお金がたりなかったら、それに見合った食料を買い求めて、消費者は、餓えをしのいでいたのでした。このように、闇市は、消費者を餓えから救ったのでした。闇市の商人の多くは、戦地から帰って来た兵隊さん達（復員兵）でした。彼等は体力もあるので、東京周辺の農村に食料を仕入れに行き、彼等は闇市で稼いだお金で、生活をしていたのでした。</p>
<p>闇市は、屋根も何もない、青空市場でした。ここで売られている商品は、地面の商品を並べていました。少し気のきいた、商店では、箱や、ござ、むしろの上に、並べられていました。ところが、数年後には、屋根が出来、壁が出来、出入口が出来て、店らしくなり、さら数軒が固まることによって、商店街が形成され、今もその面影を残している、商店街があります。</p>
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		<title>統制経済と自由経済</title>
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		<pubDate>Sun, 11 Nov 2012 22:57:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦後の闇市が果たした役目]]></category>

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		<description><![CDATA[商品の価格は、売り手がその商品の、価格を決めて、買い手が、その価格に同意すれば、その商談は成立し、商品と金銭が [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>商品の価格は、売り手がその商品の、価格を決めて、買い手が、その価格に同意すれば、その商談は成立し、商品と金銭が交換されて、その取引は成立します。もし買い手が、売り手の決めた価格が、高いと思ったら、その取引を断るか、その値段を下げるように、交渉し、再度双方が納得すれば、取引が成立します。</p>
<p>これは一対一の場合ですが、品物が多量にある場合には、その品物に対する、売り手側の供給量と、買い手側の必要となる需要量も、価格を決める上で影響を、及ぼします。供給量が、需要量を上回れば、供給過多で、価格は下がるし、下回れば、供給不足で、価格が上がります。いずれにしても、価格の形成は、売り手と、買い手の当事者だけで、決定されます。他の要因は働きません。これが自由経済です。自由販売ともいいます。</p>
<p>一方、統制経済とは、この価格形成に際して、政府など国家機関が、なんらかの形で関与することを、言います。その理由の、一つに、需要に対して、供給が極端に不足して、その品物の値段が、高騰して、国民が満足に生活することが、困難になると予想されたときに、政府がその品物を全て買い上げて、国民に平等に手に入るように、配給制度を敷いて、その価格も決定して、国民に売り渡す制度をいいます。この価格を公定価格といい、○のに「公」の字通称「マル公」と、言っていました。この制度が敷かれて、生産者が政府に品物を、売り渡さなかったり、決められ価格以上の、値段で取引をすると、「闇取引」といわれ、「<a href="http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21CO118.html">物価統制令</a>」違反として、刑事罰の対象となりました。</p>
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		<title>戦時中からあった闇取引</title>
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		<pubDate>Thu, 13 Dec 2012 18:06:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦後の闇市が果たした役目]]></category>

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		<description><![CDATA[日本は、戦時中、物資の供給が不足してくると、順次その物資を、政府はその管理下に置いて、自由販売から、統制経済に [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>日本は、戦時中、物資の供給が不足してくると、順次その物資を、政府はその管理下に置いて、自由販売から、統制経済に組み込んでいき、配給によって供給するようにしました。特に、戦争遂行に必要な物資は簡単に、政府の手に入ることが、出来るように、早くから、政府の手によって、その供給は管理されていました。</p>
<p>ところが、これらのうち、国民の生活に必要な物資は、必要なときに、必要な数量以上に、必要なところに、供給するという流通の機能は、海上の制空権を、奪われてしまっていたので、海上輸送は出来なくなり、陸上輸送が、一手に引受けざるを、得ませんでした。</p>
<p>いまと違って、陸上輸送を一手に引受けていた鉄道は、その能力以上の輸送量が殺到して、軍需物資優先で、生活物資は後回しなってしまい、国民の生活に必要な物資、食料も、衣料も、遅配、欠配が当然となっていました。</p>
<p>生活するためには、どうしても必要な物資は、政府で決めた値段より、高くても必要とする人は、買いたいと思っているので、この人達が欲しがっている、物資をこの人達に供給すれば、政府に売り渡すよりも、高い値で売ること出来て、その分儲かるので、ここで需要と供給が発生して、物資の移動が行われました。</p>
<p>この物資の移動は、正規のルートを外れているし（横流し）、もちろん犯罪行為でもあるので、「闇取引」といわれました。戦時中は、警察の目も光っていたので隠密裏に、行われていました。この取引には、軍や政府の高官が関与しているという、噂も流れていました。</p>
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		<item>
		<title>戦後の闇市の発生</title>
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		<pubDate>Wed, 19 Dec 2012 18:32:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦後の闇市が果たした役目]]></category>

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		<description><![CDATA[戦時中は、空襲などによって、物資の流通はスムース行われていませんでした。戦争が終っても、物資の不足は変わりませ [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>戦時中は、空襲などによって、物資の流通はスムース行われていませんでした。戦争が終っても、物資の不足は変わりませんでした。政府は隠匿物資や、進駐軍に要請して、彼らの物資も放出してもらいましたが、これらは「焼け石に水」でした。</p>
<p>ところが、闇市に行くと、どこから手に入ったのか、まず普通では、お目にかかれない、平和な時代を思い出させる、いろいろな物が、売られていました。もちろん政府が決めた値段の、数倍、数十倍もする値段が付いていました。そしてそれを買って行く人もいました。</p>
<p>いつ配給があるのか、あてにならないのを、待っていたのでは、消費者は餓死してしまうので、闇市場に出かけ、高いのを承知の上で、求めたのでした。</p>
<p>ところが、食料を供給する農村では、成人男子の殆どが、兵隊に召集され、田畑に対して満足な農作業は、行われていませんでした。その結果、農産物の作柄は悪く、供給不足は、変わりませんでした。それでも農村では、生活のためには、食料以外の物資、例えば衣料などが欲しいので、自用品として、供出免れた、農産物を換金したかったのですが、流通がうまく機能していないので、困っていました。</p>
<p>このように、需要があって、供給もあったのでした。あとは生産地から、消費地までの、流通と、その物資を捌く、場所が必要なだけになります。</p>
<p>流通の役を担ったのは、大勢いた失業者達でした。もとの職業は軍人（復員兵）、操業停止した軍需工場の職員、海外からの引揚者、みんな仕事が無いので、そのまま闇商人となって生活していました。市場を開く場所は、あちこちにありました。人が集まる大きな駅の周囲は、駅が空襲されたときに、類焼して火災が大きくなるのを防ぐために、予め周囲の家屋を撤去（強制疎開）したり、空襲で焼けてしまい、広い空地が出来ていたので、このような土地で、闇市が開かれていました。</p>
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