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Category : 終戦後の暮らし

終戦後の暮らし

世界第二次大戦が終わったとき、私は小学生でした。それまでは、毎日、毎晩、空襲に悩まされていましたが、この心配が無くなり、うれしかったです。だが大人達にとっては、戦争が負けて、それで終ったということなので、そのショックは大きかったようです。

その後、しばらくすると、小学校を卒業したら、誰もがあと3年間、新しく出来る中学校へ、通うことになるという、話が耳に入ってきました。

いままでなかった学校だから、どこかに新しく作るのだろう、くらいに思っていましたが、4月になると、私の学校の卒業生は、また小学校に来ましたが、今度は工事中の建物に入って行きました。そこは将来、教室になるであろうという部屋でしたが、戦争の影響であまり工事が、進んでいませんでした。

そこを覗いて見ると、まだ床はまだ無くて、土の上にムシロを敷いて座り、先生の話を聞いていました。その彼らも夏休みが終ると、中学校が出来たと言って、もう小学校には来ませんでした。

私達小学生にとって、敗戦のショックは、戦争が終ってから、一ヶ月後にやって来ました。いままで、親のいうことは聞かなくても、いうことは必ず聞いていた、先生から、「墨塗り教科書」を、作るように言われたときでした。教科書に落書きをして、これが親に見つかったら、ものすごく怒られた、その教科書に、墨を塗ったり、破くのですから、とても淋しかったことを、思い出しました。

そんなことを思い出していると、そのころのことが、いろいろと、思い出されて来ました。食べ物のこと、着る物のこと、履く物のことなど。私は在宅ライター 募集に応募して、いまこのライティングをしています。自分の過去の体験をありのままに綴っています。今の若い世代の人々に、この体験が伝わり、役に立つことがあれば、このうえない喜びです。これが在宅ライターのだいご味だと思います。

戦後、人々がよく口にした言葉に、「戦争のために、何もかにも失くしてしまいました」と、いうのがありました。確かに目に見えるものは、失くしたのでした。でも目に見えないものは、チャント残って、いま花が開いているのです。

註1:昭和16年(1941)4月から、昭和22年(1947)年3月まで、満6歳から12歳までの児童が通う学校は、「国民学校」といっていました。

註2:昭和22年(1947)3月まで、「中学校」と、呼ばれていた学校は、「高等学校」と呼称を変え、満15歳から、満18歳の生徒が通う学校になりました。